第4回(2013年2月20日改訂)
午後3時過ぎに津波の第1波は襲来した。私と妻は安全な場所まで避難しきれなかった。やむをえず医院2階の院長室に駆け込んだ。窓の外には自分の車や隣の家が波間に浮かびながら山のほうに流れていくのが見えた。この世の終わりかと思った。その刹那、海水は建物内に入り込み、瞬く間に天井まで達した。当然、体は水没した。私は死を覚悟した。3年前のくも膜下出血は乗り越えられたが、これで命運は尽きるのかと、人生の無常を感じたが、やむを得ないことだと思った。妻も駄目だろうから、仙台の学校に通う一人息子を残していくことになる。それだけが心残りだった。
(以上、平成23年10月発行「けせん医報」第120号:東日本大震災特集号より抜粋)
要は逃げ遅れたのである。当院海岸から直線距離100メートルと至近であった。あれだけの大地震の直後、津波常襲地・三陸の住民たるもの、速やかに避難すべきであった。地震発生時当院の患者は十数人であった。外の駐車場で揺れが収まるのを待った後、皆避難した。その後の自分は災害心理学でいうところの「正常化バイアス」が働いたのであろう。
地震の被害状況を検分してまわっていた。職員には院内の清掃を命じていた。ずいぶん暢気な事であったし、今思えば近所には既に人影がなかった。
当院の裏手山側に盛り土をしたJRの線路があった。線路に上がるとすぐ高台となり、そこには避難場所に指定されている寺があった。
明治29年の津波でわが家は流された後、昭和初期の国鉄線の開通時に家屋敷も全体に盛り土をしたため、昭和8年と35年の津波には流されずに済んだ。しかも35年の津波の後、湾口防波堤も作られている。大丈夫なはず、悪くとも床上浸水くらいだろうとずっと思い込んでいた。
どれくらい時間が経ったのであろう。さほど長い時間ではなかった筈だ。第一波が引いた後の院長室で私は覚醒した。妻も生きていたが、愛犬は溺死していた。階段の瓦礫の山を掻き分けて一階に下りてみた。かつての裏庭は泥の海と化していたが、水深は精々膝上くらいのものであった。動けなくなっていた妻を背負って、明治以来の旧宅と土蔵が消え去っているのを横目で見ながら、泥まみれの白衣を引きずったまま、高台の寺に退避した。
第二波以降、海はさらに荒れ狂った。
被災2日後(3月13日)、妻は海水の誤嚥によるARDSとなり、DMATのドクターヘリで県立大船渡病院から東北大病院へ運ばれた。私も付き添って仙台へたどり着いた。被災後はじめて人心地がついた。髪の毛は海水に浸ったままで、寺の住職から借りたジャージとサンダルという格好だった。中継地の花巻でDMATの看護師さんから水とパンを分けてもらった。これが被災後初めての食事だった。翌14日、学校の寮に避難していた息子を迎えに行った。妻は挿管されたままだったが、東北大ICUで家族3人が再会できた。反抗期の息子の目に涙が光っていた。治療は奏効し、妻は3月24日に退院できた。
被災後はじめて現地に立ったのは3月22日である。仙台から盛岡までバスで行き、盛岡からは知人の車に同乗させてもらった。建物の躯体は保たれていたが、その内外には瓦礫が散乱していた。天井も抜けていたし、浸水した医療器械はすべて使えそうもなかった。再開の目途も立たず、途方に暮れたというのが正直な気持であった。
しかし、取りあえずしなければならないのが、医療情報の保護だった。出入り自由の瓦礫と泥の廃墟の中に紙カルテや心電図、レントゲンフィルムが散乱していたのだから。当院は平成15年の開業当初は紙カルテであったが、平成20年から電子カルテを導入した。しかしバックアップとして紙カルテも保管していた。瓦礫の中から泥だらけのハードディスクと、水を吸って重くなった紙カルテをやっとの思いで回収した。電子カルテは専門の業者に再生を託した。紙カルテは職員に保管を依頼した。
私には忸怩たる思いがあった。やむを得ぬこととはいえ、発災後2日目で現地を立ち去り、医療職としての責務を果たせなかったからである。
3月30日、二回目の現地入りをした。ただ当てもなく医院や自宅の片づけをしていた。
すると患者さんや知人・友人が結構訪ねてきた。私は不在であった事への非難の言葉は一切なく、妻の病状を案じてくれた。元気で退院した事を話すと、今度は「薬がなくなったがどうすればよいのか」や「いつ診療を始めるのか」と問いかけられた。また流失したと半ばあきらめていた自分のステト2本を職員から手渡しされた。それは彼女が回収、保管していてくれたものだった。
地元の各方面からも、仮設診療所の開設を強く勧められた。4月4日から、現地から約2キロ離れた避難所で、仮設診療所を開いた。先に末崎町に入っていた自治医大の医療支援チームには物心ともに助けてもらった。大変感謝している。逡巡している私を前に「最初から保険診療を始めるべきだ。それが地域医療再生の第一歩になる」と言ってくれたのもこのチームの医師であった。4月15日には電子カルテが待望の再生を果たした。3月末に発せられた厚労省の事務連絡に則り、紙カルテは焼却した。
仮設診療所は間借りのためそれなりの苦労があった。また自分の住処が地元に無くなったので自家用車を新たに買って、毎日仙台から往復320キロの通勤をした。交通量が増えた東北道の無料化が恨めしかった。
岩手県は6月になって「被災地域医療確保対策緊急支援事業」を打ち出した。これは被災地の全壊した診療所に対し、建物と医療機器を県が用意し2年間無償で被災医師に貸与するという制度である。最低限の設備でも予算的には足が出るが、これは利用しない手はない。従来の仮設診療所の近くに土地を借りて10月末にプレハブの診療所が完成した。ここで被災後初めて白衣を着て仕事をするようになった。患者の婆さんが頼もしげに「ようやく医者らしくなった」と褒めてくれた。
気仙(けせん)とは岩手県の東南端の2市1町すなわち大船渡市、陸前高田市、住田町を指す旧郡名である。私の所属するのはこの気仙医師会である。今回の津波により会長、副会長の2名を亡くした。彼らはいずれも50代の働き盛り、陸前高田で開業していた。
大船渡市内にあった医師会館も浸水し事務局も壊滅状態。辣腕の事務長が市の災害対策本部に毎日詰め、自ら連絡役となって気仙管内を駆け巡ってくれたので、何とか医師会は成り立っていた。
災害時の医療を想定し郡内の開業医を地区別に3つに分け、それぞれが集団として行動する取り決めは医師会にはかつてあった。しかし大津波では浸水するかしないかで東西南北の地区別では意味を成さなかった。通信手段も途絶したため、結局行動は個々の開業医の判断に任せられた。被災した医師はそのまま避難所で災害医療を行った者や私の様にやむを得ぬ事情で管外へ出た者もいた。被災しない医師はまだ停電の中、自院を3月15日前後から開いて処方箋を書き続けた者もいた。中には自ら志願して避難所での災害医療活動を行った者もいる。手前味噌になるが、管外に一旦出た者の中で私が最も早く仮設診療所を開設することが出来た。「ぜひ末崎町内で再開を」とする地域の声に押されたもので、ある意味開業医の勲章だと言ってくれた人もいる。
いずれにせよ、今後の展望が開けない現状で、医師会という組織を引っ張っていくのはたいへんなことである。被災前から私は総務という雑用係であったが、今回被災した。とても任には堪えないと考えたが、皆から強く推されて今回、医師会長職を引き受けることになった。満51歳で開業後10年にも満たない若輩、しかも4年前の大病で健康にも不安があるのだが、病診・診診連携によって効率的な医療を、もともと医療資源が枯渇しつつあるといってよい被災地気仙に築いていきたいと思う。
被災後はほとんどジーンズを穿いて過ごしたが、今年から綿パンにもどった。ジャケットを羽織る機会も増えてゆくだろう。
生き残されたことを天命と考え、愛すべき三陸・気仙の人々への「最後のご奉公」をする積りである。
(平成24年3月30日)
平成24年9月発行の東北大学旧第一内科同窓会誌・甲寅会誌より転載