第1回(2010年7月13日掲載)
「長生きしたけれど、良いことは何にもない。」
とお年寄りに言われるといちばんつらい。「そんなことはないですよ。」
と言い返すのは簡単だ。
しかし本当に「そんなことはない」のだろうか?
目は見えなくなり、耳は遠くなる。足腰も弱くなる。疲れやすくなる。
物忘れをすることも多くなる。楽しいと感じることが少なくなる。
息子や娘は町に出たまま、田舎には帰ってこない。独りぼっちになる。寂しさが募る。
「ポックリ逝けば良いのだけれど、なかなかお迎えが来なくて。」
と寂しげに呟くお年寄りが多い。
何かお年寄りを納得させる言葉はないだろうか、いろいろと考えてきた。
私事ではあるが、母と父を夫々亡くした。母は58歳、父は72歳で年寄りと言うには若すぎた。母のときは私も30歳になったばかりと大変若かったので、精神的な衝撃は大きかった。父が亡くなった時は闘病生活が母より長く、40歳間近の私も医療者として関わった部分もあったため、衝撃は母の時ほどではなかった。
しかし不思議なことに、父の没後数ヶ月して大きな不安感が私を襲った。これは逆に母のときの比ではなかった。その理由がわからず自問した挙句、漸く答えを見つけた。
「次に死ぬのは俺だ」
そう思ったからだ。
父母亡き後、私の肉親は息子と弟がいるだけだ。次に死ぬ順番は自分だ。そう直感したのだ。
誰でも必ずいつかは死ぬのだが、その死ぬ事が実は一番恐い。だからこそ人は日常の意識から死を遠ざけている。しかし肉親の死は人に死を強く想起させる。まして父母が亡くなり、同胞の中で自分が年長だとすれば、死への恐怖は強く現れるのではないか。
90歳前後で、ご夫婦で通院を続けてくれる患者さんが何人かいる。この人たちの息子や孫、ひ孫はなんて幸せなのだろうと私は思う。ご夫婦が生きながらえているおかげで、子や孫は死を意識しなくて済んでいる。人はたいてい自分よりも親や兄、姉が先に逝くと思っているだろうから。 年長者が生き続けるのは年下の人間を死の恐怖から解放してくれているということだ。長生きすることは年下の家族に幸せを与えていることになる。
いくら目が見えなくなってこようと、耳が聞こえなくなってこようと、足腰が立たなくなって歩けなくなろうと、長生きすること自体が、皆に幸せを与えているのだ。死に一番近い人が、死の恐怖から家族を守ってくれている。突き詰めればそれが長生きの意味、生きている甲斐、生きがいなのではないだろうか?
「生きていることこそ生きがいなのだ。」極論だろうか?
しかしこの論法で説くと、診察室では何となくわかった顔をしてくれるお年寄りは少なくない。